特集「笑う家族に福きたる?」放送作家 鈴木おさむ氏

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プロフィール:鈴木 おさむ (すずき おさむ)

放送作家。1972年生まれ、千葉県千倉町出身。
高校時代に放送作家を志し、19歳で放送作家デビュー。バラエティを中心に数々のヒット番組を手がける。エッセイ「ブスの瞳に恋してる」シリーズはベストセラーになる。2002年、森三中の大島美幸と結婚、2015年第一子誕生。2009年には「いい夫婦の日」パートナー・オブ・ザ・イヤー受賞。映画「ONE PIECE FILM Z」「新宿スワン」やドラマ「生まれる。」の脚本、小説「芸人交換日記〜イエローハーツの物語〜」「名刺ゲーム」の執筆、舞台の作演出、ラジオパーソナリティ等でも幅広く活躍。

平成28年11月23日(水・祝)、山口市男女共同参画センターフェスティバルで開催された講演会「笑う家族に福きたる?」が大変好評につき、紙上講話でも、ぜひお楽しみください。

 「僕はもう何でも笑ってけ笑ってけと、子供にも『笑福』って付けちゃったくらいです」と、この度のテーマ「笑う家族に福きたる?」に関するエピソードから講演は穏やかに始まりました。

人生観が変わる出来事

 大学1年で放送作家になった鈴木さん。初めは驚くことがたくさんあったそうです。例えば、自分たちがマイナスだと思っていることが、この業界では付加価値、資格のようになるということ。中学校しか行っていない、高校を中退した、東大出身などは全く関係なく、「おまえは人としてどのくらいおもしろいのか、ということを突き付けられた」と。しかし、そのおかげで、「人間としておもしろくなっていかなければならない」と19歳で気付け、『SMAP×SMAP』など、20代前半からたくさんの仕事に携わることができたそうです。
 しかし、多数の番組を手がけ、経済的にも潤い、「調子に乗っていた」という25歳の鈴木さんに、ご実家から一本の電話がかかってきます。銀行に呼び出され、「お父さんの借金がいくらあるか知ってますか?」と。鈴木さんの実家はスポーツ用品店兼自転車屋で、地元の学校販売で体操着などを年間何千着も売っていました。しかし、時代の流れもあって借金が一億円にも膨れ上がっていたのです。鈴木さんはこの衝撃の事実に「とてもじゃないけど返せない。自分の蓄えを持って、家族を連れて逃げよう!」と真剣に思ったそうです。鈴木さんがこれまでの人生で、本気で放送作家を辞めようと考えたのはこの時の一度だけ。この騒動で、一週間仕事を休んだそうです。

自分の人生を全て笑ってもらおう!

 そんな時、『めちゃ×2イケてるッ!』のディレクターさんから電話がかかってきました。鈴木さん曰く、この方も「とにかく何でも笑いにしていけ!」というタイプで、「おさむ、大丈夫か。こんなに休んだことないだろう」「やばいです。実は銀行に行ったら借金がありまして・・・」。これに対する一言目は、「おまえ、それおもしれーな」。鈴木さんは内心、「この人、完全におかしいな」と思いつつ、深刻な状況と、逃亡の計画を伝えました。すると、「その話、会議に来てみんなの前で話してみろよ」と。後日、鈴木さんはいよいよ放送作家を辞めることを決意し、挨拶のために会議に参加しました。会議の終わりに、突如ディレクターさんが「皆さん、おさむからおもしろい発表があります」と言ったそうです。その声をきっかけに、鈴木さんは、「悲しく話してもしょうがない」と腹をくくり、あえておもしろおかしく話しました。すると、そこにいたみんなは大爆笑。話しているうちに、鈴木さん自身も「この話はおもしろい話なのかな」と思えてきて、一週間よどんでいた気持ちはリセットされたそうです。
 次の日、鈴木さんは『SMAP× SMAP』のプロデューサーさんから、「おさむ、聞いたぞ。おまえは絶対才能があるからくじけちゃ駄目だ。お金はあげられないけれど、仕事を頼むことはできる。絶対やり続けろ」と声をかけられました。「よし、頑張ろう」、鈴木さんは決意します。鈴木さんは寝ないで放送作家として働き、家族もそれぞれ必死に頑張り、頑張った分のほとんどを借金の返済に充てました。そして辛いときはみんなに話して笑ってもらう。その繰り返しの中で、鈴木さんは自身の根本である「自分の人生を全て笑ってもらおう、笑い飛ばそう」という気持ちに辿りついたそうです。そして、30歳頃、「もうちょっとで返せる」という目標が見えてきたのです。

大島美幸さんとの出会い

 その頃の鈴木さんは、高校の後輩で芸人のマンボウやしろさんと、やしろさんが連れて来る売れていない芸人たちと、いつの間にか週に1回、必ず飲み会をするようになっていました。やしろさんから「おさむさん、誰か会いたい人いますか?」と言われた鈴木さんが唯一1人だけ名前を出したのが、森三中の大島美幸さんでした。当時、森三中の大島さんは、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』という番組で、裸で、しかも男という設定でサウナに入っていたそうです。鈴木さんはそれまで、「女の人が裸になったら絶対笑えない」と思っていたのですが、人生で初めて女の人の裸で笑ってしまい、それと同時に、「すごいやつが出てきた」と感じたそうです。当時の大島さんは、まだデビュー2年目ぐらいでした。鈴木さんは「乱暴な芸風や大胆な芸風の人ほど裏では真面目。だから、この人は実はすっごい繊細なんだろうな、真面目なんだろうな」と、会ってみたくなったそうです。大島さんとようやく会えたのは、それから1ヶ月ほど経ってから。すると、思ったとおりに腰が低く、礼儀正しい印象を受けたといいます。

 大島さんと会った当時、鈴木さんには彼女がいました。しかし、鈴木さんはおもしろそうだし、みんな盛り上がるかなという好奇心と同時にこれまで人生の節目で何回か経験したアドレナリンが出る感覚から、初対面で「結婚しよっか」と言いました。すると大島さんも芸人さんなので「いいっすよ」と答えます。それからというもの、飲み会のたびに「結婚しようぜ」「いいっすよ」といったやり取りは繰り返されました。
 そんなある時、(鈴木さん曰く「あの生意気な」)森三中の村上さんと黒沢さんが来て、「おさむさん、飲み会で毎回大島に結婚しようって言いますが、それって結局ブスをばかにしているだけですよね?」と言ってきたそうです。鈴木さんは「違うよ」と答えましたが、二人は「おさむさんは彼女がいますよね。別れてないじゃないですか。それに、親に挨拶に行こうとか言わないじゃないですか」と。次の日、鈴木さんは彼女と別れ、次の週の日曜日に大島さんの親に挨拶に行ったのです。
 鈴木さん30歳、大島さん22歳。鈴木さんは、殴られるつもりで挨拶に行きました。すると、ドアを開けた瞬間に正座したお父さんから、「もらってくれてありがとうございます」という言葉をいただいたそうです。「初対面の一言目でそう言われ、本当に結婚することになっちゃったんです」と鈴木さん。

人生で大事にしてるものの1位同士が一緒

 こうして始まった鈴木さんと大島さんの結婚生活。それまでの鈴木さんは、「きれいだな、かわいいな」などの理由で女性とお付き合いしていました。しかし、大島さんと生活するようになって「僕は借金のことすら人に話して、人生をおもしろくしようと思うようになってしまうほど笑いを大切に思っている。大島さんも芸人として笑いが大事。芸風だったり、お笑いだったり、自分の人生で大事にしているおもしろいことの価値観が一緒。やっぱり、人生で大事にしてるものの価値の1位同士が一緒っていうのが、すごく大事だなって思ったんです」。
 結婚した当初は「大島さん」「おさむさん」と呼び合っていた二人ですが、ある時、大島さんから「今日から私のことを『みいたん』って呼んで。あなたのことは『むうたん』って呼ぶから」と言われました。呼び方を変えてから1週間、それまで人に甘えるのが苦手だった鈴木さんは、大島さんに甘えられるようになっていったそうです。自らの経験からも、「旦那さんが定年退職をされた夫婦は、呼び方を変えるとすごくいいらしいですよ。不思議なのですが、それまでの『働いてくる人』『家を守っている人』っていう関係が、また友達みたいになるんですって」と鈴木さん。
 そして、結婚して初めてのクリスマス。新しいズボンを買おうと思っていた鈴木さんに、大島さんは手作りのズボンをプレゼント。大島さんはプレゼントの達人で、いつも相手が欲しいものをプレゼントするそうです。一方、鈴木さんはこれまでずっとそうしていたように、「好きなものを買ってあげる」と伝えました。その言葉を聞いて、大島さんは「いらない」と言って寂しそうな目をしたそうです。それから1ヶ月くらい経ってから、「正直、寂しかった。プレゼントは、もらう方も嬉しいけれど、あの人にこれをあげたら喜ぶかなとか、あれ欲しいって言ってたなって考えながら選ぶ、それは自分にとっても楽しいものじゃないの? 包みを開けて欲しいものが当たったとか、あんまり喜んでないかなとか。それなのに好きな物を買ってあげるよっていうのはプレゼントの1番楽しいところをカットしている。そこの努力をしないってことは私のことを好きじゃないっていうことなんじゃないか」と大島さんに言われたそうです。鈴木さんはそれを聞いてハッとしました。『SMAP×SMAP』や『笑っていいとも!』を、「視聴者はこれがおもしろいと思ってくれるんじゃないかな」と制作しているはずなのに、「今まで付き合ってきた一番近くにいる人に、その人のことを全く考えないでプレゼントを買っていたんだ」と気付かされたそうです。
 そして「今まで仕事をずっと一生懸命やってきたけど、その分忘れてる部分や、ない部分を妻がすごく取り戻してくれたんです。人を愛するという気持ち、愛しさとはこういうことなんだっていうのは妻に教えてもらいました」と鈴木さんは続けました。

2回の流産

 結婚して5年経った2007年、鈴木さんは35歳になり、大島さんは子供を授かりました。しかし、3回目の健診後、号泣する大島さんから電話で流産を伝えられました。すぐに病院に駆けつけると、大島さんは人目もはばからず泣いていて、鈴木さんはどうしていいか分からなかったといいます。
 その当時の大島さんは、番組でよく相撲を取っていました。流産した5日後が手術日に決まったのですが、その5日間、大島さんは自分が産むことができなかった子供がお腹にいながら相撲を取ったそうです。悲しみに暮れる姿に「もう芸人を続けるのは無理だと思いました。辞めた方がいいんじゃないかって言おうと思ったんです」と鈴木さん。ところが、その週末に大島さんのお母さんが来て、大島さんが昔から好きだったお母さんのカレーをただただ作り、食べさせ、そして最後にポンポンと背中を叩き、たった3時間ぐらいで帰られたそうです。「頑張りな」も何も言うこともなく。たったそれだけなのに大島さんは元気を取り戻しました。そしてその日の夜に「私は今回のことを自分のエッセイに書こうと思う。もちろん傷ついたけど、そのことを私はちゃんとおもしろく書きたい」と言ったのです。鈴木さんが自分の人生を人に話し、笑ってもらうことで傷が癒えたように、大島さんも「それができたらって思った」と。そうして立ち直ったのです。
 3年後の2010年、再び子供を授かった二人ですが、また流産してしまいました。「仕事をする女性はみんなそうだと思いますが、おめでたいことなのに、妊娠しちゃいましたって言わないといけないってことが起きてくるんですね」と鈴木さん。番組によってはスタッフ100人規模で動くので、ロケや収録が中止になると大変です。「そこでうちの妻は決めるんです。ここからしばらく仕事に突き進もうと。徹底的に体を張って、徹底的に頑張って、もうやり尽くしたと思ったところで、もう一回子作りに入ろうって」。鈴木さん夫妻の大きな決断でした。
 それから何年かして、大島さんに『24時間テレビ「愛は地球を救う」』のマラソンと、『福福荘の福ちゃん』という大島さんのためだけに脚本を書いた映画の仕事が同時に来ました。体重が88キロあった大島さんは、マラソンのために2ヶ月で15キロ落とし、その2ヶ月後に映画のために再び10キロ増やすことに。「ロバート・デ・ニーロみたいだね」と話していた二人ですが、周りからは心配されていたそうです。しかし、大島さんはやると決め、鈴木さんにこう言いました。「1年間、これでもかって仕事したら自分が今芸人としてやれることはやった気がするから休もうと思う。妊活休業というのをしたい。不妊治療という言葉が私はあまり好きではないけど、『妊活』という言葉を世の中の人が少しでも使いやすくなったらいいなと思っている」と。鈴木さんは「いいじゃないか」と即答したそうです。そして、その翌年妊活休業を宣言し、5月から大島さんはお休みに入りました。
 妊活休業に入りすぐに子宮筋腫の手術を受けた後、7月頃から2回タイミング法を、駄目なら9月から人工授精を、人工授精で駄目だったら、年明けから体外受精に進もうと決めていたそうです。大島さんは9月の人工授精で無事に妊娠。しかし、流産を経験した鈴木さんは、「やったー!」よりも「大丈夫かな」という気持ちに、そして「またあの悲しい顔を見たくない」と思ってしまったそうです。

「父勉休業」

 半年が過ぎ、もう少しで産まれてくるというときに、鈴木さんは「妻が妊活休業だって仕事を休んで、僕はこのまま仕事をしてていいのかな」と育休について考えるようになりました。昔、あるラジオ局にいるディレクターさんが、男性で育休を取ったことも大きな理由になりました。「おさむ、とにかく0歳から1歳のときっていうのは、動物から人間になるときだから、絶対に父親として見ておくべきだ」と言われたことがずっと心に残っていたんだそうです。43歳で子供を授かるという奇跡に立ち会えること、育休でその姿を見守ることができるのは、鈴木さんにとってこの上ない喜びであると同時に、仕事を休むのは非常に怖いことでもありました。考え抜いた末、周囲の理解のおかげもあり、鈴木さんは1年間の育休を取りました。現実問題、実際に休んで戻ってきてから、なくした仕事はたくさんあったそうです。ただ、増えた仕事もありました。
 子供は安産で生まれ、鈴木さんは1年間の育休をとり、また仕事を再開し、今に至ります。「僕はイクメンという言葉が大嫌い。ブログのコメントに『うちのおじいちゃんが、ちゃんと子供を育てる男はイクメンっていうんじゃない、父親っていうんだぞと言ってました』と書いてくれた人がいて、本当にその通りだなと思います」と鈴木さん。母親というのは子供が産まれた瞬間にもう母親で、一方で父親は「父親になる権利を与えられた」ということだと、子供が生まれた瞬間に思ったといいます。「いろんな父親の形があるけれど、父親になる権利を与えられたのだから、できる限り奥さんをアシストしたい、ちゃんと子供と向き合って育児をしたい」、そんな思いから鈴木さんはこの1年の育休を「父勉(ちちべん)休業」というようになりました。
 「でも、意外と男ができることは少ないってことに気づくんですよ」と鈴木さん。「母乳で育てていたので。もちろんミルクをあげたり、おむつを替えたりはしますが、子供が向き合うのは基本的にお母さんで、男はあんまりやることないんです。これはまずい。育休って宣言したのに、ただの無職の男みたいになっちゃったじゃん」と。そう感じていたある時、出産後のお母さんは赤ちゃんのことで精一杯で自分はふりかけご飯やおにぎりなどを食べ、なかなか栄養をとれていないと周りの女性から教えられ、「ご飯を作ろう!」と思い立ちました。とにかく自分のポジションを作らねばという思いもあり、夫婦の分は毎食作ることにしたそうです。「妻が栄養のあるものを食べたら、元気になれる。もちろんおしめや抱っこも何でもやりますけども。でも一つ気づいたのは、子供にとっては妻が一番の生命線だということ。だから、妻をアシストするという係に徹しようと思ったんです」と鈴木さん。ただ、とてもキレイ好きな大島さんですから、「2倍汚くなるから片付けはやめてくれ」と厳しく、片付けに関しては話し合ったそうです。夫ができること、できないことをはっきりさせて、できるだけ妻をアシストしたいというこの思いは、コミュニケーションする時間も増やし、家族にとってとても良い結果になりました。「0歳から1歳のときに毎日抱いてると、僕の身体のフォルムとにおいを覚えるので、僕の抱っこはお母さんの抱っこと同じぐらいの効果があるんです。よくお父さんが抱いても泣き止まないというのが多いけど、僕が抱いても泣き止む。本能が僕を感じ取っているんだと思いました」と笑顔で話す鈴木さん。本格的に仕事に復帰した現在も、とても楽しい日々を送っているそうです。
 「父勉休業の1年、思い出もたくさんできました。親に借金があったことも、今思えばあれがあったから良かったのかなって。あのときに、笑って話せよって言ってもらったことにも非常に感謝しています。悲しいことがあっても何があっても、前を向いて明るく話す、人を笑わそうとしながら、一番自分の傷が癒されてるのかな、なんていう感じがします」、鈴木さんの清々しい表情で講演は幕を閉じました。

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